<スタッフ紹介>

北野裕子

 

コラム

 

染織祭の物語

 

■第15回 染織祭の背景

     1.京都染織業界の動向B大衆ってどんな人たち?

 

 

ところで、なぜ、絹物は大衆が買えるような値頃になったのでしょうか。前回登場した売れ行きが好調だった関東織物とは「銘仙」で、伊勢崎・足利・秩父など関東産地で生産され、斬新なデザインと価格の安さから、若い女性を中心にオシャレ着として人気でした。今でいうファストファッションというところでしょうか。

この銘仙は繭から生糸を作る時、機械にかからない大きさや形の屑繭を化学処理して生産する紡績絹糸を原料糸として使いました。また、第一次世界大戦中にそれまでドイツから輸入していた化学染料の国産化が進み、さらに力織機も導入され、原料糸・染色・製織のすべての工程で価格低下が進んでいきました。高級品が売れない不況下で、それまで染呉服類を中心に扱ってきた四大商店も関東産地の問屋から大量に仕入れて販売しました。

ところで、どんな女性たちが銘仙を着たのでしょうか。染織講社を組織した頃、昭和6210日の『大阪朝日新聞』には「猫も杓子もお蚕ぐるみ 生糸安が齎した絹織物全盛時代」という記事が見えます。愛知県西部では農村の娘や紡績女工が木綿縞や絣を着ていたのが、世間に不景気風が吹き荒れると銘仙を着るようになり、今では木綿縞や絣が珍しく、これは銘仙類が34円で手に入るようになったからで、この現象は全国の都会でも田舎でも見られるとあります。そして、絹物が全国に行き渡ったからには今年も銘仙を中心にさらに格が高い京染呉服地の縮緬(ちりめん)や平絹の需要が活発になるだろうと予想しています。

都市部のOLや新中間層と呼ばれたサラリーマン家庭の娘さんだけでなく、全国の農村の女性たちも絹織物の販売対象となる「大衆」として想定されていたのでした。

 

 

 

足利銘仙のポスター
足利織物伝承館ホームページ