染織祭衣装

 

染織祭の歴史

 

染織祭のはじまりと染織講社の創立

大正末年から昭和初期にかけて経済的な不況が続き、京都の基幹産業である染織業の振興を図るため、昭和5年(1930年)秋、官民有力者によって染織祭の計画が提唱された。ちょうど翌年昭和6年(1931年)4月1日には市域が拡大され大京都市が誕生する祝賀ムードもあったため、この計画を具体化すべく取り組みが進められた結果、佐上京都府知事、土岐京都市長、大澤京都商工会議所会頭によって正式に発表され、同年2月16日京都ホテルにおいて染織業者代表者参集のもと、染織祭の主体となる染織講社が創立された。
染織講社は、名誉会長に佐上信一(当時京都府知事)、会長に土岐嘉平(当時京都市長)、副会長に大澤徳太郎(当時京都商工会議所会頭)、理事長に安川和三郎(当時京都市助役)がその職に就任し、全国染織関係者が評議員並びに常任理事、理事の職に就いた。平安神宮内に本部を置き、1.染織祭の挙行、2.染織祭と関連する施設の創建を事業とし、京都市左京区の岡崎グラウンドに建設された祭壇において、京都府神職会によって選定された「天棚織姫神」「天羽槌雄神」「天日鷲神」「津昨見神」「保食神」「拷幡千々姫神」「呉織神」「漢織神」の9神を祭祀した。

染織講社家紋(日輪に杼と翼)

 

祭りの概要

祭祀

祭祀は玉串奉納を中心にして初日は午後1時から、翌日は午前9時からの2日間に亘り次の通り執り行われた。齋主は當山平安神宮宮司、祭主は土岐染織講社会長である。

<祭祀一日目次第>

1.齋主齋員着席
2.修祓
3.降神
4.神饌
5.幣物
6.齋主祝詞
7.祭主祝詞
8.齋主玉串奉納拝礼
9.齋員拝礼
10.祭主玉串奉納拝礼
11.京都府知事玉串奉拝礼
12.京都市長玉串奉拝礼
13.京都商工会議所会頭玉串奉拝礼
14.染織講社理事長玉串奉納拝礼
15.染織講社評議員代表玉串奉納拝礼
16.来賓玉串奉納拝礼
17.参加各団体代表者玉串奉納拝礼
18.神饌徹下
19.春庭楽奉奏
20.諸員退下
(午後9時 昇神)

<祭祀二日目次第>

1.齋主齋員着席
2.修祓
3.降神
4.神饌
5.齋主祝詞
6.齋主玉串奉納拝礼
7.齋員拝礼
8.祭主玉串奉納拝礼
9.京都府知事玉串奉拝礼
10.京都市長玉串奉拝礼
11.京都商工会議所会頭玉串奉拝礼
12.染織講社理事長玉串奉納拝礼
13.染織講社評議員代表玉串奉納拝礼
14.来賓玉串奉納拝礼
15.参加各団体代表者玉串奉納拝礼
16.神饌徹下
17.諸員退下
(午後7時 昇神)

 

祭詞を奉読する富山平安神宮宮司
齋員の入場
参列する染織講社役員

 

 

パレード

パレードは祭祀が無事終了したことを祝い参詣する目的で行われ、染織講社、染織業界に関わる団体、料理飲食業、映画関係者、新聞社等の参加によって行われた。祭祀の関係者を乗せた自動車や華やかに装飾された屋台車、揃いの衣装に身を包んだ関係者らのパレードは、午後1時に京都府庁舎を出発し丸太町通へ、丸太町通を烏丸通へ、烏丸通を四条通へ、四条通を祇園石段下へ、東山線を二条通へ、二条通を東へ、公会堂前を通って終点となる岡崎グラウンド祭場までを練り歩いた

<順序>

第一列
一番 祭事委員自動車
二番 幣物自動車
三番 齋員自動車
四番 祭主(京都市長)自動車
五番 京都府知事自動車
六番 京都商工会議所会頭自動車
七番 染織講社理事長自動車
八番 染織講社常任理事自動車

第二列
    市立第一工業学校装飾自動車 二台
    同校色染科機織科学生(徒歩)
一番 西陣織物商組合 屋台二台
二番 半襟商組合・京都刺繍同業組合 屋台二台
三番 京都染物同業組合 屋台二台
四番 西陣織物同業組合 屋台二台
五番 京都縮緬商組合・京都濱縮緬商組合・京都生絹同盟会・丹後縮緬同業組合 屋台三台
六番 京都小売商連盟 屋台二台
七番 京都染呉服商組合 屋台三台・関東織物商組合(盛将会) 屋台七台
八番 京染呉服悉皆同業組合 屋台二台
九番 京都木綿商組合 屋台一台
十番 白川水洗団

第三列
    京都料理飲食業連合組合 屋台二台
    伏見協賛団自動車 二台
    日活・松竹・帝キネ男女優乗車自動車 五台
    日本織物新聞社 屋台一台

午後1時半から2時までの間に、京都市内8花街の芸妓ら735名が揃いの日傘、衣装にて行列に加わった。

 

先頭を進む大鳥居と幣物自動車
揃いの袴姿
日活スターを乗せた装飾自動車

       烏丸通を行進する大行列の一部 ※写真は1931年(昭和6年)のもの(出所:染織祭グラフ)

染織祭記念スタンプ
(郵便押印)
記念たばこ「光」(昭和12年大蔵省専売局)

 

 

女性時代衣装行列の構想と概要(染織祭衣装)

初年度、染織祭は祭祀とパレードという構成であったが、各方面から「祭りを賑やかすための催物の一つとして大衆行列の企て」を願う声があがった。これは明治28年(1895年)より毎年平安神宮で開催されていた時代祭の時代扮装行列が支配階級の男性陣で構成された時代行列であったことに対抗したもので、上古時代から江戸時代末期に亘る女性の時代風俗を復元するため、古来から京都で培われていた高度な染織技術を結集し、当時京都に揃っていた有職故実、時代風俗研究の専門家の協力を得て、計画からわずか2年間で考証し、復元にこぎつけた。短い期間でありながら総勢143領の衣装を、各時代で実際に使われていた技術を用いて忠実に再現できたことは、優秀な人材と高い技術力が当時の京都に結集していたからこそ可能となったのである。

 

<時代衣装の考証・復元に関わった人物>

・武家故実研究家 関保之助(1868〜1945)
・有職故実研究家 猪熊浅麻呂(1870〜1945)
・有職故実研究家 出雲路通次郎(1878〜1939)
・歴史学者      江馬 務(1884〜1979)
・風俗研究家    吉川観方(1894〜1979)
・有職織物研究家 田義男(1897〜1985)
・京都絵画専門学校教諭・日本画家 猪飼嘯谷(1881〜1939)
・古美術商     野村正治郎(1879〜1943)

<時代衣装の調整に関わった装束店>
・田装束店(京都市上京区烏丸通下長者町下ル)
・荒木装束店(京都市中京区場之町596)
・松下装束店(京都市中京区新町通三条上ル)

 

【上古時代】機殿参進の織女

【平安時代】やすらい花踊

【奈良時代】歌垣

【鎌倉時代】女房の物詣

【桃山時代】醍醐の花見

【室町時代】諸職の婦女

 

【江戸時代初期】小町踊

【江戸時代末期】京女晴着姿

 

 

 

染織祭衣装詳細

上古時代「機織参進の織女」(16領)
古墳時代における織女が織殿に参進する様子を万葉集の記述や埴輪を参考に復元した。衣・単・表裳・下裳・下衣・紕帯・襪・領布・帯・紐で基本構成されている。

奈良朝時代「歌垣」(20領)
上代における歴代天皇が催した歌垣にちなみ、男女が集まって歌舞を催す歌垣へと向かう宮廷女性の姿を復元した。薬師寺の吉祥天像や女神像、正倉院の鳥毛立女屏風を参考に、いまだ中国の影響が大きかった宮廷女性の衣装を考証しているが、実際の織物や染色技法・文様は正倉院に伝存する天平時代の古裂を参考にした。唐衣・表着・裳・襦袢・紕帯・襪・領布・白紐で基本構成されている。

平安朝時代「やすらい花踊」(23領)
年中行事絵巻の詞書にある、高雄寺の法華会に催された「やすらいはな」を参考に復元した。衵・単・小袖・帯・カラゲ紐で基本構成されている。
(※今日の芸能史研究では「やすらいはな」踊りではないという見解が出されている)

鎌倉時代「女房の物詣」(22領)
神社仏閣を参詣する物詣を再現したもので、石山寺縁起絵巻のような鎌倉時代における絵巻に描かれた衣装や鶴岡八幡宮の御神服の裏地に用いられた文様、四天王寺に伝存する掛守などを参考に、女房姿と供女を復元した。女房は袿・小袖・下着・襦袢・帯・下締・カラゲ紐・掛帯、供女は袿・小袖・下着・襦袢・下締・カラゲ紐。帯などで基本構成されている。

室町時代「諸職の婦女」(13領)
この時代にあらわれた歌合の流行の一つである職人歌合を描いた絵巻物や伝存する小袖、小袖裂を参考に復元した。この時代では職人を主題としており、当初の目的であった大衆風俗の復元で、吉川観方や野村正治郎のコレクションを参考にしたものも含まれている。小袖・下着・襦袢・帯で基本構成されている。

安土桃山時代「醍醐の花見」(18領)
慶長3年(1598年)3月15日、豊臣秀吉が醍醐寺の三宝院で行った花見の様子を再現し、当時の風俗図屏風や肖像画の他、高台寺に伝存する高台院所用の小袖、奈良金春座の能装束、宇良神社に奉納されていた繍箔小袖などを参考に復元した。打掛・間着・複数の下着・帯・襦袢・小紐で基本構成されている。

江戸時代前期「小町踊」(16領)
寛永期以前により京都で7月7日の七夕に行われていたとされる小町踊りの様子を元禄期の風俗に設定し、伝存する多くの小袖や小袖裂、吉川観方のコレクションを参考に復元した。この時代は縮緬や友禅染といった染織技術が大きな進歩をみた時代であったため、それらを多く用いて特色を出した。表着となる小振袖・下着の振袖・襦袢・裾除・かかえ帯・帯で基本構成されている。

江戸時代後期「京女の晴着」(15領)
身分の違いによって着用する衣装のデザインや技法、結髪の仕方や帯の結び方などが大きく異なる時代であったため、公家・武家・町家の中流以上の3つに風俗を分け時代考証を行い、伝存する小袖や小袖裂などから復元した。公家は被衣・掻取・間着・下着・襦袢・間帯・かかえ帯、帯締、武家は打掛・間着・下着・襦袢・帯・帯上・かかえ帯、町家は上着・下着・襦袢・裾除・帯・帯上・かかえ帯で基本構成されている。

 

 

経過

年表
内容
昭和6年(1931)
4月11日〜12日
第1回染織祭
1日目、祭祀。
2日目、午前中は祭祀の続き。午後より染織業関係者らによるパレード。夜は岡崎公園での祝賀踊。
(9月18日、満州事変)
昭和7年(1932)
4月9日〜10日
第2回染織祭
1日目、祭祀。
2日目、午前中は祭祀の続き。午後より染織業関係者らによるパレード。新たに「やすらい花踊」(平安時代衣装)が加わる。
昭和8年(1933)
4月8日〜10日
第3回染織祭
1日目、祭祀。
2日目、午前中は祭祀の続き。パレードは雨のため中止。
3日目、染織業関係者らによるパレードに加え、女性時代衣装行列(上古時代〜江戸時代末期の女性時代風俗衣装)が加わる。
昭和9年(1934)
4月7日〜8日
第4回染織祭
1日目、祭祀。
2日目、午前中は祭祀の続き。午後より染織業関係者らによるパレードと女性時代風俗行列。
昭和10年(1935)
4月6日〜7日
第5回染織祭
1日目、祭祀。
2日目、午前中は祭祀の続き。午後より染織業関係者らによるパレードと女性時代風俗行列。
昭和11年(1936)
4月4日〜5日
第6回染織祭
1日目、祭祀。
2日目、午前中は祭祀の続き。午後より染織業関係者らによるパレードと女性時代風俗行列。
昭和12年(1937)
4月10日〜11日
第7回染織祭
1日目、祭祀。
2日目、午前中は祭祀の続き。午後より染織業関係者らによるパレードと女性時代風俗行列。
(7月7日、盧溝橋事件→日中戦争の開始)
昭和13年(1938)4月8日
第8回染織祭
祭祀・式典を開催。"未曾有の事変下にあるに鑑み行列を取りやめ"(※京都日出新聞記事1938.4.9)
昭和14年(1939)4月8日
第9回染織祭
祭祀・式典を開催を開催。行列の代わりに『時代婦人風俗画展覧会』を京都市左京区の京都市美術館で開催。
昭和15年(1940)4月7日
第10回染織祭
祭祀・式典を開催。
紀元2600年の記念行事(百貨店・美術館等)に出展。
(7月7日、奢侈品等製造販売制限規則(「7・7禁令)施行)
昭和16年(1941)4月12日
第11回染織祭
祭祀・式典を開催。やすらい花踊(平安時代衣装)を祖神に奉納。
(太平洋戦争が開戦)
昭和17年(1942)4月11日第12回染織祭
祭祀・式典を開催。小町踊(江戸時代初期衣装)を戦勝祈願し祖神に奉納。
昭和18年(1943)4月17日第13回染織祭
祭祀・式典を開催。
昭和19年(1944)4月17日第14回染織祭
祭祀・式典を開催。
昭和20年(1945)4月9日第15回染織祭
祭祀・式典を開催。
8月15日、日中戦争・太平洋戦争が終戦
昭和21年(1946)4月7日第16回染織祭
祭祀・式典を開催。
10月、昭和9年から行列を自粛してきた時代祭が時代踊りを開催。平安講社の要請により歌垣(奈良時代衣装)・やすらい花踊(平安時代衣装)・小町踊(江戸時代初期衣装)が協賛。
昭和22年(1947)4月8日第17回染織祭
祭祀・式典を開催。
昭和23年(1948)4月19日 染織祭を継承し染織文化祭祭典開催(第18回染織祭)
祭祀・式典を開催。
昭和24年(1949)5月16日 染織文化祭祭典開催(第19回染織祭)
祭祀・式典を開催。
(3月8-9日戦後初の京都染織見本市が開催され、醍醐の花見(桃山時代衣装)6点が展示)
昭和25年(1950)7月1日 染織文化祭祭典開催(第20回染織祭)
祭祀・式典を開催。
10月時代祭で7年ぶりに時代装束行列を再開。その列に染織祭のやすらい花踊(平安時代衣装)・女房の物詣(鎌倉時代衣装)・醍醐の花見(桃山時代衣装)が加わる。
昭和26年(1951)5月17日 染織祭を継承し染織文化祭祭典開催(第21回染織祭)
祭祀・式典を開催。
7月13日染織講社の解散により京都織物商協会へ全ての衣装及び文書が移管。

 

昭和9年京都市観光課が制作した第4回染織祭ポスター
(所蔵先:京都工芸繊維大学美術工芸資料館 所蔵番号AN.5384-22)

 

 

「染織祭」のその後(染織祭の中止と時代祭への継承)

昭和12年(1937年)7月に発生した盧溝橋事件を皮切りに、次第に日中戦争の気運が高まるにつれ、豪華絢爛な時代衣装行列は未曾有の事変下であるに鑑み取り止めとなり、以後復興することはなかった。また、染織祭自体も祭祀のみは昭和26年(1951年)まで続いたが、その後取り止めとなって以後復興することはなく、歳月を経て染織祭はいつの日にか人々の記憶からも消えてしまった。
戦争の気運で同じく取り止めになっていた時代祭は戦後まもなく復興し、染織祭の時代衣装行列における「女性の風俗行列」という意思は、戦後の時代祭の行列に反映された。昭和25年(1950年)、猪熊兼繁(猪熊浅麻呂の息子)、吉川観方、江馬務らの風俗考証によって『桃山時代婦人列(染織祭「醍醐の花見」)』、『鎌倉時代婦人列(染織祭「女房の物詣」)』、『藤原時代婦人列(染織祭「やすらい花踊」)』の3つの女性風俗行列が新たに加えられ、その際に用いられたのは染織祭の衣装であった。以後、時代祭は次第に女性扮装行列を充実させ、装束も自前で誂られたが、その際に参考にされたのも、染織祭の時代衣装行列であった。

 

 

染織講社の解散と「染織祭」財産の引き受け

染織祭の運営を主体としていた染織講社は、祭りの復興叶わずその役目を終え、この貴重な資料の運営・保管等の主体を、もともと衣装の調整の根源となった問屋業者、すなわちその団体である京都織物卸商協会に無償で譲渡を行い、運営に当たってもらうのが最も適切であるとの理事会決議により、昭和26年(1951年)7月13日付けで、引渡し人 染織講社理事長 光明正道、引受人 京都織物卸商協会理事長 円城留二郎により、染織講社運営の主体を京都市経済局商工貿易課より京都織物卸商協会に移行することとなった。これにより染織講社財産の一切を無償で譲り受け、以後は京都織物卸商協会(改組を経て、現:京都染織文化協会)の責任の下に管理を行っている。

 


染織講社財産引渡証書本文

 

 

女性時代衣装行列の復活

染織祭資料の収蔵は、昭和26年(1951年)以降、平安神宮倉庫に保管頂き、必要に応じて搬出利用を行ってきたが、同神社倉庫の改築に伴い、京都産業会館5階に収蔵庫を整備し保管することとなり、平成3年(1991年)4月に同神社より当協会収蔵庫に資料の移設を行った。また、この間の1984年(昭和59年)5月26日には、宮崎友禅斎生誕330年を記念して、染織祭は「染織まつり」として復活し、50年ぶりに都大路を練り歩いた。行列の参加者は、50年前には京都の7遊郭の芸妓さんであったと資料に記載されているが、この時は全国から一般公募し、870名を超える応募者の中から選定が行われた。当日は好天の下、祖先への感謝と未来への願望が一つとなり、華々しく京の都大路に繰り広げられた。