コラム
染織祭の物語
■第18回 染織祭の背景
2.室町問屋の思惑B丹後ちりめんについて
前回はちりめんについてお話しましたが、今回はその産地です。京都府北部の丹後地方が代表的な産地で、江戸時代から今日に至るまで6〜7割を生産し、他にも長浜(滋賀)、昔は美濃(岐阜)、北陸でも織られていました。なお、丹後ちりめんの歴史については手前味噌になりますが、下の本に詳しく描かれていますので、ご参考にしていただければと思います。
丹後には江戸時代、享保5年(1720)頃に京都西陣で織られていたちりめん織の技法が導入されたという伝承があります。何と今年で300年です。友禅染を支える生地として人気が高く、一大産地に発展していきます。このちりめんを京都の問屋が仕入れて販売するという関係は今日まで続いています。
しかし、両者の間で大正から昭和初期に大きな問題が起こってきます。前回、撚糸をして織り上げた生地は「精練」を経て凹凸が生まれると紹介しました。この工程を明治以降、京都の問屋が行い、丹後は織るだけの産地になってしまいます。精練を丹後に戻す運動が大正時代に起こり、丹後の人々が団結して丹後縮緬同業組合(丹後織物工業組合の前身)を組織し、精練工場を作りました。丹後の国で精練するので、当時の人々はこれを国練(くにねり)と呼びました。前年の丹後大震災を乗り越え、昭和3年(1928)9月、国練は始まり、生地として産地から流通できるようになりました。
しかし、それまで京都の問屋は織ったままで仕入れ、京都で精練していたのですから、両者の関係はどうなっていくのでしょうか? なお、この頃には第8回で詳しく書いたように、呉服を扱う問屋は室町問屋と呼ばれるようになっています。
北野裕子『生き続ける300年の織りモノづくりー京都北部丹後ちりめん業の歩みから』新評論 2013年 |
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