コラム
染織祭の物語
■第6回 染織祭創設への道のり 1.祭りの発端 @昭和5年8月末
これまで5回は染織祭がどのように研究されてきたのかをお話してきました。近年、染織祭衣装が美術館や博物館で展示され、合わせて衣装を所蔵する(公社)京都染織文化協会も所蔵文書や情報を公開するようになり、少しずつ染織祭を知る人も増えています。そんな染織祭はどのように創設されたのか、今回からは、その発端についてお話しましょう。
昭和5年8月末、丹後縮緬(ちりめん)宣伝大会の時、津原武(丹後縮緬同業組合長)と丹城(安藤商店)・桑原(吉田忠)・矢守(丸紅)・山川(市田)の支配人、新聞記者たちが懇談するなかで、染織京都の発展策として話題に上がりました*。これらの商店は「四大商店」とも呼ばれた染呉服商で、当時京都に400以上あった問屋の中でもその中心にいました。なぜ、この時に話が出たのかについて、これ以上、詳しい記録はありません。また、四大商店と丹後ちりめんの関係については折々にお話します。
やがて、秋になり、京都染織物見本市の開催に向けて、その関係者と知事・市長・商工会議所会頭らが集まった時、府民に最も関係が深い染織の祖先の神々に感謝する祭りを行うことが提案されました**。この見本市の中心にいたのも四大商店で、行政に呼びかけたことで大規模な祭りへ発展していくことになります。
*山本花魂編『染織祭グラフ』山本写真印刷工場1931年。
『京都日出新聞』昭和7年3月2日付 |
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