<スタッフ紹介>

北野裕子

 

コラム

 

染織祭の物語

 

■第8回 染織祭創設への道のり 1.祭りの発端 B室町問屋

 

 

前回、お話した京都染織物見本市の中核を担ったのも四大商店を筆頭とする染呉服商たちでした。彼らは京都の中心部を南北に走る室町通周辺に店を構えていたので、通称で「室町問屋」と呼ばれていました。

室町問屋は下の図のように、当時、大きく分けると3つの形態(@京都縮緬商A染潰商B染呉服商)があったといわれています。@は主に丹後から京染呉服の生地になるちりめんを仕入れ、Aは@から生地を仕入れて京染を施し、BはAが染めた呉服を仕入れて全国へ販売しました。Bは消費者に向けて前へ販売していくため、前売問屋とも呼ばれました。四大商店はこのB染呉服商(前売問屋)のグループに入ります。明治期の問屋はひとつの分野を扱う専門問屋でしたが、大正後半から主力の染呉服のほか関東織物の銘仙や西陣織の帯など全国の産地から商品を集めて販売する「呉服の総合商社」化が進みます。

そのため、京都内のみならず全国の産地問屋とのネットワークや大きな財力を持っていました。京都を代表する友禅染や西陣織は分業で生産されており、また、商品ごとの組合が強いなかで、四大商店のように横断的に取引をする人たちが登場してきたことも京都染織物見本市の開催を可能にした一因でしょう。