<スタッフ紹介>

北野裕子

 

コラム

 

染織祭の物語

 

■第9回 染織祭創設への道のり

     2.具体化する祭り @新聞報道の始まり

 

 

祭りは昭和58月末、染呉服商の市田・吉田忠・安藤・丸紅が提案し、秋の日本染織物見本市開催に向けた会合では、見本市協会関係者から知事・市長・商工会議所会頭らに広がっていきました。

その動きを新聞が報道するのは昭和6年が明けてからです。118日に見本市協会と府・市・会議所が協議したことが、翌日の『京都日出新聞』の「桜咲く陽春四月 華々しい呉服祭」という記事からわかります。「染織の都」である京都市では四季を通じて全国の染織物の宣伝大会が開かれ、府・市・会議所も協力し、地方客を呼んでいるので「呉服祭」を開くことが必要ではないかという世論が昨秋から広がり、府では祭神の物色もし、計画が具体化してきます(119日付)。「あれっ?祭りの名前が違う!」とお気づきの方も多いでしょう。この点は後で詳しくお話します。

さらに21日には京都染織業者を網羅する見本市協会が主唱者となり、府からは保安課長・商工課長、市からは観光課長・勧業課長、会議所からは理事・事業課長、染織見本協会からは理事長らが出席し、第1回協議会が開催されます。実行方法は府・市・会議所が主催、染織関係各組合と有力実業家を網羅して後援とし、祭典は京都神職会に委ねることになったとあります(122日付)。市から観光課長が出席していること、さらに主催は府・市・会議所、後援が染織関係組合や実業家という点も違っていますので注意しておきます。

*筆者がケガで入院し、連載が長らく途絶えましたこと、心よりお詫び申し上げます。
 不定期ではございますが、まだまだ、連載は続きますので、気長にお付き合い下さい。

 京都日出新聞 昭和6年(1931年)1月22日付