<スタッフ紹介>

北野裕子

 

コラム

 

染織祭の物語

 

■第11回 染織祭創設への道のり

     2.具体化する祭り B呉服祭から染織祭へ

 

 

染織業界が発起し、行政が賛同する形で祭りの創設が決まり、さらに公民合同の染織講社が組織され、講社を中心に祭りは具体化してゆきます。

ところで、第9回では祭りの名称が「呉服祭」だったことを覚えておられますか? 当時、百貨店では「呉服まつり」という販売促進イベントが盛んに開かれ、呉服は絹素材のきもの、太物は綿や麻素材のきものと区別され、呉服=高級というイメージがあったので、業界の人たちは呉服祭という名称を提案したのでしょう。

しかし、「呉」は中国古代の国名を意味しており、日本固有の名称の方がいいのではないかという議論が出てきて「染織祭」へと変更されます*。ただ、この理由を明確に書いた史料はありません。満州事変(昭和69月)が起こるのはまだ半年先ですが、満州某重大事件(張作霖爆殺、昭和3年)をはじめ、日本が中国大陸への進出をうかがっていた時期だったことも反映しているのかもしれません。

また、祭神についても、当初、府社会課が調査し、太秦大酒神社の呉織神・漢織神、西陣織姫神社の栲幡千々姫命、蚕の社の木花開耶姫命とする案が出たものの、昔から染織を掌られた日本の神々を祀ることを神職界が進言しました**。さらに日本に新たな織物技術をもたらした呉織・漢織(『日本書紀』に記述)は渡来神だと新聞に投稿する人もいました***。一任された京都神職会は様々な史料をもとに最終的に天棚機姫神・天羽槌雄神・天日鷲神・長白羽神・津昨見神・保食神・栲幡千々姫命・呉織女・漢織女を選定しました****

 

*『京都日出新聞』 昭和6年215日付
**『同』昭和6年122日、217日付
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『同』昭和6年21718日付
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『同』昭和6年4月9日付

 

         『京都日出新聞』昭和6年(1931年)2月15日付