<スタッフ紹介>

北野裕子

 

コラム

 

染織祭の物語

 

■第12回 染織祭創設への道のり

     2.具体化する祭り C大衆祭の構想

 

 

どのような祭りにするのかを検討するなかで、時代祭へ対抗する意味で「大衆祭」を新設してはどうかという提案も登場しています。それは時代祭が各時代の支配階級の風俗を再現しているのに対し、染織祭では町人や百姓などの平民風俗を表現しようという構想でした*。戦前の時代祭には華やかな女性の風俗行列はなく、男性のみの行列でした。

ただ、平民風俗の調査と研究には時間がかかるので4月の開催までに間に合わないため、次年度以降に持ち越されることになります。確かに高位な人々の装束は資料が残されていますが、庶民の衣服の資料は余りありません。当時は第一次世界大戦(大正3(1914)〜7(1918)年)の好景気を受け、女学校が多数創設されるなかで、講義用に日本服飾史の本がやっと登場した頃でした。それらの本についてはずっと先で詳しく紹介します。さらに第4回で書いたように当時は昭和恐慌とよばれる経済が悪化した時代ですが、延期になった理由が経済状況によるものという記事も見られません。

このような「大衆祭」構想には時代祭との差別化のほかにも西陣織と友禅染の歴史的背景の違いもあったのでしょう。時代祭では上流階級の男性装束を再現するので平安時代からの技術がある西陣織が求められましたが、一方、友禅染は江戸時代の17世紀末に富裕な町人女性の小袖から発達したため、活用の場が限られていました。祇園祭も同様で、友禅染の実力を発揮できる祭りはなかったのです。

ところで、だれが染織祭を発起したのか、思い出して下さい。染呉服商たちです。次回からは、この染呉服商たちの動きや「大衆」という言葉に込められた真意を探っていきます。

 

*『京都日出新聞』昭和6年314日付、411日付

 

 

         『京都日出新聞』昭和6年(1931年)3月14日付