<スタッフ紹介>

北野裕子

 

コラム

 

染織祭の物語

 

■第13回 染織祭の背景

     1.京都染織業界の動向 @世界恐慌から昭和恐慌へ

 

 

これまで、第1〜5回では染織祭についての研究動向、第6〜12回の「染織祭創設への道のり」では昭和5年8月に染呉服商の四大商店が発起⇒秋には京都市・府・商工会議所が賛同⇒昭和6年の年頭から染織講社の設立・名称の決定・大衆祭の構想など、実施に向けて具体化していく様子をお話してきました。すでに第4回でも少し書きましたが、当時は「昭和恐慌」と呼ばれた時代でした。しかし、祭りを行うためには多くのお金と人力が必要です。そんな時期になぜ祭りを創設したのか、できたのか、それを探るため、今回からは、祭りを発起し、中心となった京都染織業界や京都市の動向について掘り下げていきます。

さて、京都のお話に入る前に日本全体の経済状況についてみておきましょう。ヨーロッパが戦場となった第一次世界大戦(大正3〜7年・19141918)ではアメリカと日本が世界の工場となり、急成長しました。日本の工業化はまだ底が浅く、大正9年には早くも戦後恐慌に見舞われ、大正12年には関東大震災が起こり、バブルの終息ができず、昭和2年には全国の銀行で取り付け騒ぎが起こりました(金融恐慌)。

一方、アメリカでは株価の高騰が続いていました。ところが、昭和4年10月、やっと経済が回復してきた英国中央銀行が金利を上げたため、アメリカの金融市場から一気に資金が移動し、株価が急落、世界恐慌が発生します。一方、日本ではその波が押し寄せてくる昭和5〜6年貿易額が落ち込みますが、早くも昭和7年には回復を始めます(グラフ参照)。

 

 

恐慌前後の日本の貿易額 恐慌期の各国工業生産指数

歴史学研究会『日本史史料[5]現代』岩波書店 1997年 25