コラム
染織祭の物語
■第14回 染織祭の背景
1.京都染織業界の動向A昭和5年秋の商況一大衆品の好調
今回は祭りが発案され、賛同が広がりだした昭和5年秋の京都染織業界の様子を『京都府市会議所連合調査報告書』(10月)から原文を現在の言葉使いに直してご紹介しましょう。これは京都商工会議所が業界の動向を毎月まとめて刊行したものです。『京都日出新聞(現在の京都新聞)』に一部が掲載されています。
昭和5年1月、世界大恐慌のなかで、緊縮を唱える浜口雄幸内閣のもとで金解禁が実施されました。日本が保有する金の分だけに紙幣発行を留め、不良な債権や企業を整理しようという政策でした。そのため、不景気になることが予想され、実施前には非常な警戒感に襲われましたが、日本銀行の利下げ、興業銀行の救済など、政府が厳格な緊縮一点張りをやや改め、不安な気分が少し緩んできていたのが秋頃でした。
そんな折角到来してきた好機に、京都の重要な商品のうち、西陣織物は警戒が厳重で、その他の陶器・銅器・漆器・扇などは関知すらしない状況でしたが、一方、関東織物は活況で、それが売れ切った恩恵を染呉服類のみが受けていました。会議所は関東織物や染呉服類という絹物の売れ行きが好調なのは大衆向けの値頃に価格が低下していたためだと分析し、一度、絹物を着た大衆の購買心をとらえ、「高級品という空名のみを誇り」とせず、現代大衆の生活の実際に即した物品の製造販売を推奨します。
どうも厳しい言葉が西陣織物や工芸品に向けられています。昭和4年末、京都府・市・会議所は京都大学の本庄栄治郎教授らも交えて「西陣織物振興会」を発足させ、その救済策を模索していたからでしょうか。
『京都府市会議所連合調査報告書』
浜口雄幸首相
龍谷大学京都産業学センター所蔵
国立国会図書館「近代日本の肖像」
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